橘 火曜日更新日

同族嫌悪

と言う言葉がある通り

わたしはかなりの同族嫌悪でありまして

うーん。上手く言えないんだけど

あれかなぁ。 ありふれた人になりたくないし似たような人は受け付けないっていうわがままが発揮されるような性格をしておりまして。

「らぶちって変わってるよな~」

「らぶちはまじで変」

「らぶちはある意味天才」

みたいな言葉はもう生きてきて腐る程言われて、それは私にとってある意味褒め言葉で

単に

「可愛い、綺麗、頭がいい、細い」

という女の子を褒める言葉を言われるより

「おもしろい、テンションがやばい、変、おかしい、変わってる、宇宙人、クセ強い、個性が強すぎ」

とかって言われる方がとっても嬉しくて

というかそう言われすぎてそっちに慣れてる自分もいるけど、他からみたらバカにされてるような言葉でも私にとっては

アイデンティティが強いって言われることは

もうそれはそれは嬉しくて

そして周りにそれを楽しんでくれる人がいて

わたしに好きと言ってくれる友達が沢山いて

そんな人生でよかったなって思います

こんな変わった人間になったのは分岐点たるものはまあどこかであったのかもしれないけど、度重なる環境の変化が(土地、対人関係を含む)大きなものなんだろうなと思います。

嬉しい事も嫌な事も沢山あるし、生きてらんねえなって思う事もあるけど

私が思うに期限というものを人生の中で度々置くことによって生きることを実感できます。期限たるものを設定することで、目標とは違って、ここにどういった予定がある、どういった人々と会う、その期限が過ぎればまた違った予定がある、また違った人々と会う、はたまた同じ人々と会う そういった期限が過ぎれば、ここまで生きることができた、じゃあ次また生きるぞ生き延びるぞって

考えるようにしてます

言うておくと、人々が生きることができるのは当たり前じゃないです

当たり前だと思ってる人がいるならいるでいいけど、決して当たり前ではなく明日死ぬかもしれない、いつ死んでもおかしくないです。そういった人生のなかで尊い命を所持した私たちが期限を決めて生きる、そしてまた生き延びる、その連鎖を繰り返して

その中に楽しみ、苦しみを味わうことは

貴重な経験でもあります

その中で人と違う事をして生きていきたいしありふれたような生活をする中でも一味違う性格を持って正々堂々と時を過ごすことに誇りをもっています。

誇りといってもちっぽけなものかもしれないけど、とくにちっぽけなものでもいいから

自分を認めて、好きになれることができたら

いいんじゃないかと思います

自分を好きになることは難しいことだし

こういうとこ直さないとな、こういうとこダメだよなとかあるけどそれプラス良いところがあることで1人の人間として良い味を出すんじゃないかな

同族嫌悪という言葉の多角的な見方から考えると、私は普通が何か知らないし、普通にしなさいという言葉は一体どういう意味なのかわからないけど、

人と違うように生きて何が悪い

人と同じ流れに沿わなくて何が悪い

むしろ私は自分の意思を持たずに人に流されるような人にはなりたくない

同じような族に属することを嫌うというような事も同族嫌悪に含まれている

はたまた

同じような族が嫌いという意味もある。

そうやって言葉を二重の構造で理解しています最近の思いでした

以上

 

これをみてくれた人に少しでも励ましになるといいな

 

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あ、自慢の推し。

こういう大人になるんだ〜〜

とういもいったら、変わってる。

らぶちも変わってる。

み〜〜んな違ってみんないい